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INTERVIEW異分野コミュニケーションから、
資本主義の歪みと可能性が見えてくる

Profile

丸山俊一NHKエンタープライズ番組開発エグゼクティブ・プロデューサー/東京藝術大学客員教授/早稲田大学非常勤講師

「欲望の資本主義~ルールが変わる時~/~闇の力が目覚める時~/~偽りの個人主義を越えて~」「欲望の民主主義~世界の景色が変わる時~」「欲望の経済史」「欲望の時代の哲学」など、近年「欲望」をキーワードに現代社会を読み解く異色ドキュメントを次々に企画開発、制作統括。その他「人間ってナンだ?超AI入門」「地球タクシー」「ネコメンタリー猫も、杓子も。」など様々なジャンルのドキュメント、教養エンターテイメントをプロデュースし続ける。
慶応義塾大学経済学部卒業後、NHK入局、教養番組部ディレクター、チーフ・プロデューサーなどを経て現職。過去に「英語でしゃべらナイト」「爆笑問題のニッポンの教養」「ソクラテスの人事」「仕事ハッケン伝」「ニッポン戦後サブカルチャー史」などを企画開発。
著書に「14歳からの資本主義」(大和書房)「結論は出さなくていい」(光文社新書)「欲望の資本主義」1~3(東洋経済新報社 制作班との共著)「マルクス・ガブリエル欲望の時代を哲学する」(NHK出版新書 同)「欲望の民主主義」(幻冬舎新書 同)ほか。近刊に「AI以後~変貌するテクノロジーの危機と希望」(NHK出版新書 同)などがある。

資本主義は、高度な都市文明を発展させてきた一方、今企業・個人の格差の広がりも課題となり、その在り方に世界的な議論が広がっています。NHKの異色ドキュメント「欲望の資本主義」は、世界の不平等へのフラストレーションに呼応するように2016年に始まりました。本番組は、欲望をテーマに掲げた独自の編集方針や、世界的な経済学者のキャスティングで大きな反響を呼び、スピンオフの特別編のほか毎年続編が放送され、書籍も刊行されるほど人気を博しています。今回、番組の制作統括を務め、ICFの分科会「資本主義と幸福の変容」にモデレーターとして登壇する丸山氏に、異色の経済番組のつくり方、根底にあった問題意識、そして時代との向き合い方についてインタビューしました。

時代によって変わる資本主義の形を、欲望の人類史として紐解く

「欲望の資本主義」、この企画の発想は、実は、異才クリストファー・ノーラン監督の映画「インセプション」を見た時のインスピレーションから始まりました。映画自体は人の夢の中に入ってアイデアを植え付ける特殊能力を持つ人々の攻防戦を描く、一見非常に荒唐無稽なSFです。しかし、この眼差しを私たちが住む資本主義の世界に向けると、同じようにその時代ごとに富を生むルール、「欲望」の形が潜在意識に植え付けられ、人々は無意識に思考回路をコントロールされているという見方もできるのではないかというアイデアに至りました。寝ているとき、人がその世界を夢だと気づかないように、資本主義もまた、時代時代の幻想で人々を包み込み、あるストーリーを与えている、というわけです。

資本主義とひとことで言っても、富を生むルールには、時代によって異なる、壮大な歴史がありました。産業革命以前、例えば中世メディチ家の時代に、「利子」という時が富を生む魔術が誕生し、重商主義時代には国境を越え空間の差異で富を生むことを考える人が現れ、産業革命で技術の時代になると、工業生産主導による富が資本主義を推進していきます。その後、株式市場という仕組みが生まれ大衆の時代がやって来て、いよいよ現代につながる、金融システムで富が生まれる資本主義の誕生となるわけです。こうして数百年単位で大きく概観して見るだけでも、時代のルールの変遷が見えてきます。そして今私たちは、とりあえず投資して資産を増やすことがある種当然、常識とされるような、そんな時代に生きているわけですね。ただ、見る夢は変わっても、どの時代も、いつも何らかの夢を、資本主義はその推進力にしているのだと思います。

一本の映画をヒントに、欲望という「時代の無意識」を起点に資本主義の本質を考えるダイナミックな問いを視聴者のみなさんと共有できるのではないかと考えたわけですが、私自身普段から次々に異質なものをつなげ、そのフレームの中で新たな物語を紡ぐ映像というある意味人々の無意識を投影する仕事をベースとしていることも、こうした発想を飛躍させることに役立ったのかもしれません。

富のルールが時代ごとに変わる中、まるで夢見るようにそのルールの中で幸せを追い求める人々の姿、そこに企画の糸口が見つかりました。その結果、欲望というキーワードを横串に資本主義の変遷を捉え、現代を捉え直す企画へとつながっていったのです。

反時代的な問題意識が、異分野の対話を軸にする番組づくりに

資本主義への問題意識が生まれたのは、80年代に大学で経済学を学んでいた頃です。80年代前半はバブル前夜、二次産業の工業生産主体から三次産業などのサービス、ソフト主体へと、産業構造の主役が交代する時代でした。また世界的にもレーガン、サッチャー路線という新自由主義が一世を風靡し、モノ作りより「付加価値」という考え方が重視され、消費者の様々なニーズにきめ細やかに応え、より文化的なものに価値付けをしていくという考え方が主流になり始めていたとも言えると思います。多くの標準的な家庭が次のボーナスで自動車を、カラーテレビを買うことを目指して頑張るというような牧歌的なモノ消費がひとまず飽和状態となり、80年代以降は、商品の「差別化」「差異化」という言葉が、企業のみならず多くの生活者の中にも浸透し始めていたのです。

そうした時代の風を感じながら経済学を学んでいたわけですから、市場価格の決定を需要と供給の曲線の交わりを基本に説明するセオリーや、合理的経済人を前提する理論などの意義はもちろん頭ではわかっていても、皮膚感覚ではあまりしっくり来なかったというのが正直なところです。

つまり、モノが不足していた時代に数式で表現できていたことも、飽和し始めた80年代、時代の文脈の変化の中、なにか違うルールが、異なる欲望の形が社会の基層で動き始めているのではないかと、そんな直感を持っていました。そして、変わりゆく時代のなかで変化の本質を理解するには、既存の経済学の枠組みだけではなく、思想や哲学はもちろん、文化やサブカルチャーといった周縁とされやすい分野も含めて、総合的な視座で考えるべきだと思い始めました。一つの論理で完結させてしまうことなく、様々なフィールドを横断し、様々な異質な視点も取り込んでいく発想です。

この時に芽生えた問題意識、発想の感覚は、その後入局してからの番組作りにも影響しているのかもしれません。例えば、「爆笑問題のニッポンの教養」では、爆笑問題の太田さんが色々な分野の研究者に様々な疑問を投げかける議論の様子を番組の中心に据えています。専門家同士のトークではなく、専門家と素人によるトークを通じて「教養」の相対化を図ることで、教養とは何だろうと視聴者のみなさんご自身に考えていただくきっかけを提供することを目指していました。また「英語でしゃべらナイト」という番組でも、英語を学ぶというよりも、日本と海外の異文化コミュニケーションから学びを得ることを軸にしました。1つの論理に閉じない、1つの見方に執着しない。物事を相対化して捉える、そういった精神がいつもそこにはありました。

「欲望の資本主義」でも、経済の番組なのにマルクス・ガブリエルのような哲学者やユヴァル・ノア・ハラリのような歴史家が出てくることにも私自身まったく違和感がないのも、過去の異分野の対話から常に企画を生み、制作してきたフレームワークの経験のためなのかもしれません。

健全な資本主義のために、バランス感覚を免疫のように持つ

資本主義が、欲望という無意識の反映で駆動されていくのと同じように、都市もそこに住む人々の無意識の表象の結果なのではないかと、よく思います。私は飛行機が空港に着陸する直前に街が見えてくる瞬間が好きなのですが、海外でも国内でも都市によって、本当に様々な形態をしているのを俯瞰して、実に興味深く、いつも複雑な感慨を抱きます。
大都市ほど経済の原理が働くので、スペースを有効に使うために上へ上へと高くなりますよね。そこには都市の成長をそこに表象させる思いも働いているのだと思いますが、ニューヨークの摩天楼も、ひとつの資本主義都市の象徴です。そういう意味で、建築や都市でのライフスタイルには、そこに暮らす人達の言語化されない無意識が投影されていると思いますし、都市の街並みが、まるで暮らす人々無意識が投影されるスクリーンのように感じられてくる時もあります。

今様々な課題が資本主義に突きつけられ、限界、終焉という声も聞くわけですが、私自身は資本主義に否定的なわけではなく、こうした都市のダイナミズムを含めてある種の自然成長性と紐づいている意味では、本来の経済活動の自由を支える精神はとても大事なものだと思っています。「こうあらねばならない」ではなくて、「こうもできる」という自由さとセットであるところが、資本主義の面白さではないでしょうか。しかし、マーケティング主導で数字をあげることばかりの強迫観念が生まれ、人々が一元的に「上へ上へ」とばかり過剰適応しがちな現代の状況では、しばしば、どうすれば多様性を育めるような資本主義を構想できるだろうかとも考えます。

ある時期までの資本主義は、社会主義という「外部」の存在によって皮肉なことに自らの定義を明確にせずとも成立し、どこかでバランスが取れている部分があったのかもしれません。資本主義はいつも「外部」を必要とするのです。

ICFプログラムコミッティーの南條さんも仰っていましたが、アートも80年代以前にはもう少し資本主義との間で分かり易い緊張関係がありました。資本主義の外部にアートが位置づけられ、そこに何らかの批評性がいつも介在していたわけです。しかし、あらゆる無形の差異を商品化していく「ポスト産業資本主義」が進むにつれて、いつの間にかアートの定義自体もどんどんあいまいになり、資本主義のほうがアートを飲み込んでいきつつあるようにも見えます。こうなってくると、古典的な図式の中で、アートを資本主義の外部に置いて終わり、というわけにもいきません。何をモチーフにすれば売れるのか、ビジネスの市場を意識した上で描かなければ、というサイクルの中で悩んでいる若いアーティストたちも少なくありません。市場とは無縁のものが無くなり、資本主義が広大に様々なものを飲み込んでいく中、アートが「商品」として脚光を浴びることと、「消費材」ともなりかねないことは、背中合わせなのかもしれません。

こうした時代に、私たちはどのように資本主義と向きあえばいいのでしょうか。現状、資本主義や都市の発展において、クリエイティブであることは、もちろん素晴らしいし大事なことでしょう。しかし、どこかで目的と手段が逆転して、とにかくイノベーションを生めという脅迫観念にかられ、より早く高く遠くへと尺度が一元化され、資本主義の渦に巻き込まれて疲弊してしまうとしたら、本末転倒です。市場原理と適度な距離感をとり、バランスを崩さぬように意識的である感性も、多少の免疫として育てる必要があるのかもしれません。
歴史を振り返り、様々な場への想像力をたくましくして、自分自身の中に眠る感受性を発見し、自らの「欲望」をあらためて見つめ直すことが大事なのではないでしょうか。

資本主義や都市について考えることは、その背後にある、時代と格闘した人々のドラマ、その葛藤の本質を深く思考することです、様々な異分野の事象をつなげて考えることで、大事な気付きを得られると思います。そうした意味でも、様々な異能が一堂に会し議論するICFという場は、社会を見直すスクリーンになるのかもしれません。参加者のみなさんがそれぞれ何かを発見する場となるよう、登壇者のみなさんと視点、議論を深めていければと思います。

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