Innovative City Forum
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新型コロナウイルス感染症のパンデミックは、私たちのライフスタイルも大きな変化を及ぼしました。これから世界はどこへ進んでいくのかを考えるにあたり、書物や先人の知恵を拠り所にした人も多いのではないでしょうか。
そこで、Innovative City Forumでは、都市とライフスタイルの未来を描くにあたり、登壇メンバーに「あなたがパンデミックを契機に、読み直した本や、価値を見直した先人の知恵は?」とお聞きしました。多様な分野で活躍する各メンバーからの回答をご紹介いたします。
『ニュー・ダーク・エイジ テクノロジーと未来についての10の考察』
ジェームズ・ブライドル 著 / NTT出版
『天の声・枯草熱』
スタニスワフ・レム 著 / 国書刊行会
『ユートピア的身体/ヘテロトピア』
ミシェル・フーコー 著 / 水声社
パンデミックが始まったとき、2018年に監訳した(今回のICF2020にも登壇する)ジェームズ・ブライドルの『ニュー・ダーク・エイジ』を再読した。COVID-19によって、世界はまさに薄暗がりになった。そしてこの本で語られる、さまざまな歴史的な陰謀や虚偽、誤解や隠蔽が世界に広がった。いまだ、新しいメタファーは生まれてはいない。この本の最後にある、COVID-19という「新たなる暗黒時代に生きるどんな戦略も、実体のない計算による予測、監視、イデオロギー、表象にではなく、いま・ここに対して着目することから生まれる。現在はつねに、過酷な歴史と不可知の未来のあいだにある、私たちが生き、考えるところ」であることを、このICF2020ではさまざまな識者と議論していきたい。
世界はますます複雑になっているにもかかわらず、人々はわかりやすさを求め、わかりやすいものが良しとされる。パンデミックの第一の教訓は、わかりやすいものが、むしろ悪になるということだ。噂、中傷、非難、依存、崇拝、拒否、それらはどれもわかりやすい。COVID-19に関するわかりやすさは、正しさとは無関係である。わかることを求めるのではなく、私たちのわかろうとする姿勢や能力そのものを変容しなければ、ダーク・エイジはますますダークになるだけだ。だからもう一冊読み返したのは、スタニスワフ・レムの『天の声』である。数学や物理学といえども、所詮は囲碁や将棋のように、人間が行うゲームでしかない。数学という人間の言語では宇宙をわかることはできない。この本の主人公のホガースは、レム自身であり、私たち自身でもある。
人々はつながりすぎて、あらゆる場所が現場となり、熟考と沈黙の場は少なくなった。現在の可能性を多重化、並列化していくために再認識したいのが、ミシェル・フーコーの『ヘテロトピア』だ。それは療養所、精神病院、監獄、養老院や墓地のような、そして庭園や演劇までを含む、逸脱と異議申し立ての(反)場所である。社会は平板でも、均質でもなく、いたるところに穴が空き、でこぼこでぐにゃぐにゃしている。だからヘテロトピアは、すでに身近な、いたるところにある。ただそのことに気づかない、気づかされていないだけだ。
ニュー・ダーク・エイジ
テクノロジーと未来についての10の考察
ジェームズ・ブライドル 著 / NTT出版
天の声・枯草熱
スタニスワフ・レム 著 / 国書刊行会
ユートピア的身体/ヘテロトピア
ミシェル・フーコー 著 / 水声社
『スモール イズ ビューティフル再論』
F・エルンスト・シュ-マッハ- 著 / 講談社学術文庫
新型コロナ感染症の拡大は、保健衛生の課題だけではなく、科学技術の発展や資本主義の発展といった100年単位の私たちの社会の発展に対する課題を突きつけられたように思います。科学技術と共に発展した社会は、人間を本当に幸せにしているのでしょうか。コロナ禍では、私たちはリモートワークを余儀なくされ、家族や友人などとの関係を改めて振り返る機会にもなりました。1日の大半を使っていた「働く時間」を私たちは、「幸せな時間」とすることができていたのでしょうか。企業の業績を高め、国の所得を拡大することを、経済の成長とし、私たち国民も幸せになると信じてきたことを、立ち止まって考えたくなりました。
今回のICFでは、GDPに変わる指標について議論をします。量的な拡大だけを目標にすることの危険性は、数多くの先人たちも指摘してきましたが、そうした先人たちがこの世を去った今ようやく見直されているように思います。レイチェル・カーソン、アマルティア・センなども読み返すべき著作がありますが、今回は、シューマッハーのエッセイを再編した「スモール イズ ビューティフル 再論」を紹介します。当時の社会の様々な現象と共に、主張が綴られていて、読みやすい一冊です。「働く」ことの意味を失っていった先進国と「働く」ことを人間の幸せと成長に紐づけている途上国の姿を比較し、あるべき経済学を論じています。
スモール イズ ビューティフル再論F・エルンスト・シュ-マッハ- 著 / 講談社学術文庫
『正解は一つじゃない 子育てする動物たち』
齋藤慈子 編,平石界 編,久世濃子 編,長谷川眞理子 監修 / 東京大学出版会
齋藤慈子・平石界・久世濃子編、長谷川 眞理子「正解は一つじゃない 子育てする動物たち」(2019年、東京大学出版会)を紹介したいと思います。
私はこの4月までの9か月間、カメルーン奥地の熱帯雨林にある人口900人ほどの村に家族と離れて暮らし、フィールド調査を行っていました。しかし、パンデミックを受けて任期途中での帰国を余儀なくされました。ホテルでの自主隔離を終えて大阪の自宅に帰ると、1才8ヶ月になる私の娘が見違えるほど大きくなっていました。そしてその感激もつかの間、私の生活の中では突如として「育児」が大きなシェアを占めるようになりました。娘はかわいいし、カメルーンにいた間は娘を妻とご両親に完全に任せきりにしてしまっていたこともあり、これからはヒトの父親らしく育児を妻と分担しようと思うのですが、リハビリ期間もなく急に起こった生活の変化に戸惑うこともありました。そんな時に読んだのがこの本です。
本書では、私たちヒトも含めた様々な動物の子育てのスタイルについて、著者ら自身の子育てエピソードも交えながら、平易な文章で生き生きと描かれています。完全なワンオペママのオランウータンから、イクメンパパのマーモセットやワンオペパパのトゲウオ、飢餓に耐えながら抱卵と育雛を両親で交代するペンギン、そして群れの中で育つので放任主義で見守りに徹することが出来るゴリラの母親。子育ては多くの動物にとって不可欠な活動でありながら、進化の偶然が異なる社会を生み、驚くほどバラエティに富んだ子育てスタイルが生まれたことを改めて思い知らされました。そして、蔦谷匠さんの第2章「ヒトという動物の子育て」ではやたらと手のかかる私たち赤ん坊を社会で育てるヒトの特徴が、齋藤慈子さんの第3章では「『母親』をめぐる大きな誤解」として、いわゆる「三歳児神話」の怪しさについて説明されています。
本書から受けた教訓は、「現代の子育てにはびこる『正解』は、ここ数十年の流行や情勢に大きく影響を受けた、歴史の浅いものである」ということです。これは子育てに限らず、社会の様々な問題に関して言えることかもしれません。他の動物たちの社会を参照枠とすることで、世の中の「べき」論をつねに疑い続けていきたいものです。
正解は一つじゃない 子育てする動物たち齋藤慈子 編,平石界 編,久世濃子 編,長谷川眞理子 監修 / 東京大学出版会
『分解の哲学 -腐敗と発酵をめぐる思考-』
藤原辰史 著 / 青土社
ここしばらく、気づけばいつも「食べること」について考えていた。むろん、わたし一人のみならず、自由な外出を大幅に制限された緊急事態宣言後の数ヶ月は、ふだんその感覚を摩耗させていた人々にとっても、多かれ少なかれ「食べること」に意識的にならざるをえない期間であったはずだ。毎日の食事はひとり、もしくは同居する家族に限られ、友人や同僚といつものようにテーブルを囲むことは叶わない。食事は自炊かテイクアウトに限られ、自宅以外の空間で日常の息抜きをすることも難しい。道行く人々の減少と反比例して、Uber Eatsの黒いバッグを背負った自転車は日増しに目立つようになる。かたやスーパーマーケットはいつも以上に盛況で、リモートワークに切り替えることもできず、食べ物の流通を維持するために外で働いている人たちへの敬意は増すばかりである──等々。
新型コロナウィルスの感染拡大とともにあったこの半年間、国内外を問わず、さまざまな人々がこのウィルスと、それがわれわれの社会におよぼす政治的・経済的・文化的影響について言葉を発してきた。むろん、それはいまだ過去形で記述されうるようなものではなく、現在もまたその只中にあることは確かだろう。とはいえ目下のところ、そのうちもっとも広く読まれた日本語の文章のひとつが、藤原辰史「パンデミックを生きる指針──歴史研究のアプローチ」であることは断言してよいと思われる。今年4月2日に発表されたこの学術的エセーは、「B面の岩波新書」というウェブ媒体で公開され、先行きの見えない現状を前に戸惑う人々に、文字通り一定の「指針」を与えることとなった。
ちょうどこのエセーの公表と前後して、著者・藤原辰史(1976-)のこれまでの著書を読み返していた。前掲の「パンデミックを生きる指針」は、農業史を専門とする著者が、約100年前のスパニッシュ・インフルエンザをおもな比較対象として、コロナウィルス感染拡大の渦中にある現在、および未来についての見通しを平易かつ求心的な言葉により示した名文であった。ここで著者は「虚心坦懐に史料を読む技術を徹底的に叩き込まれてきた」ひとりの歴史家として、パンデミックに直面した人々の「楽観主義」に警鐘を鳴らそうとしている。
しかし他方、わたしの関心は、こうした「歴史研究のアプローチ」の見本とも呼べるようなエセー以上に、この著者が一貫した執念とともに取り組んできたひとつのテーマにあった。すなわち「食べること」である。
農業史家としての藤原辰史の仕事には、トラクターと戦車、化学肥料と火薬、毒ガスと農薬をはじめとする、いわゆる「デュアルユース」の問題がつねに中心にあった(『トラクターの世界史』中公新書、2017年など)。くわえてここ数年は、そうした狭義の歴史学の仕事にとどまらず、「食べること」から人間存在を──ひいては世界そのものを──根本的に捉えなおそうとする刺激的な試みが目立つようになったことは注目に値する。「人間は、生物が行き交う世界を冒険する主体というよりは、生きものの死骸が通過し、たくさんの微生物が棲んでいる一本の弱いチューブである」(『戦争と農業』集英社、2017年、190頁)という達観したヴィジョンからさらに進んで、「分解」を鍵概念とする壮大なコスモロジーを開陳したのが、本書『分解の哲学』(青土社、2019年)である。
分解の哲学 -腐敗と発酵をめぐる思考-藤原辰史 / 青土社
『カルチャロミクス―文化をビッグデータで計測する』
エレツ・エイデン 著,ジャン=バティースト・ミシェル 著 / 草思社
人は、ものごとの急激な変化というものを理解するのが苦手である。しかもその変化の線上に乗せられているときにはなおさらだ。2020年の冬以降、新型コロナウイルス感染症のニュースは、日々刻刻と拡大する感染の様子を我々に伝えてきた。感染症の怖さとは、もちろんその対象が見えないことにも大きくよるだろう。しかしもう一つには、その増え方――最初はそれほどではなかったのに増え始めると一気に倍々に増えていく――が怖さを喚起するのではないか。他方、コロナ禍にあって、どのような商品(の検索数)が増えているかを時系列分析しているたくましい記事も見かけた。なるほどパンデミックといっても、それを「動き」そのもののとして捉える視点もあるなと思い、上記の本を学生たちと一緒に読むことにした。この本のやり方を参照してコロナと連動しそうなキーワードの増減をグラフにしたものである。グラフの線にしてしまうと対象をある程度切り離して(冷静に)みることができる。逆にいえば、私たちがなにかしらのヒストリーを増減の線で描いたとしても、そのグラフはまさに渦中で経験する内容から大きくかけ離れたものともなる(※)。先人の知恵ではないが、この本は変化を理解するための興味深い枠組みを提供し、また、さらには、可視化があふれる社会を考えるための題材も提供してくれている。
※変化の渦中の経験と、変化を振り返るときの語りのずれについて、野矢茂樹の論を参考にまとめたものが以下の論文である。ただしこちらは、コロナ禍とはある真逆の何もない均衡状態の妙を扱っている。
日比野愛子「生命科学実験室のグループ・ダイナミックス:テクノロジカル・プラトーからのエスノグラフィ」『実験社会心理学研究』 56(1), 82 – 93, 2016年。
カルチャロミクス ―― 文化をビッグデータで計測するエレツ・エイデン 著,ジャン=バティースト・ミシェル 著 / 草思社
『現代思想2020年9月臨時増刊号 総特集=コロナ時代を生きるための60冊』
青土社
『表現する認知科学』
渡邊 淳司 著 / 新曜社
『Mind & Language A Dissociation Between Moral Judgments and Justifications』
MARC HAUSER,FIERY CUSHMAN,LIANE YOUNG,R. KANG‐XING JIN,JOHN MIKHAIL / Wiley Online Library
『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために その思想、実践、技術』
渡邊淳司 (著, 監修), ドミニク・チェン (著, 監修), 安藤英由樹 (著), 坂倉杏介 (著), 村田藍子 (著) / ビー・エヌ・エヌ新社
『見えないスポーツ図鑑』
伊藤亜紗 著,渡邊淳司 著,林阿希子 著 / 晶文社
私は、コミュニケーションの研究、特に“触れる”ことに関するコミュニケーションの研究を行っています。パンデミックを契機に、衛生上の物理的距離の問題とともに、そこでの親密さや信頼といった社会的関係性に変容が生じ、それに対して触覚や身体性に関するサイエンス・テクノロジーは何ができるか問われていると強く感じます。このとき私が手に取って読み直したのが、アントニオ・ダマシオ(Antonio R. Damasio)の “Descartes’ error: Emotion, reason, and the human brain”(1994)(邦訳:『生存する脳 ― 心と脳と身体の神秘』)でした。
著者、アントニオ・ダマシオ(1944-)は、身体の調節系の機能(例えば、心拍、体温の調節等)が推論や意思決定に深く関わるとする「ソマティック・マーカー(Somatic Marker)仮説」を提案した脳神経科学者です。Somaticとは「身体の、肉体の」という意味であり、様々な選択肢に対する快不快といった身体的反応が、多数の選択肢の中から適切なものを選び出すのに効率性をもたらすと述べています。本書は、意識的な推論と身体的な反応を分けず、それらの“総体”として人間を捉えるべきだということを主張し、発刊当時大きな議論を呼びました。
また、意思決定だけでなく、他者に対する態度も他者に触れる体験やそのような想像力によって変化します。例えば、私は、自分や他者の心臓の鼓動を手の上の触感として感じる『心臓ピクニック』というワークショップを行ってきました。このワークショップでは、聴診器を胸につけると、それと結ばれた白い箱(心臓ボックス)が自分の心臓の鼓動に同期して振動するデバイスを使用します。そのデバイスを使って、自身の鼓動を手の上の触感として感じたり、他者と鼓動の触感を交換します。自分の生存にとって一番の重要な器官である心臓を相手に手渡し、相手の鼓動の存在感を手の上で感じることは、他者との関わり方を大きく変容させます。
それだけでなく、倫理的判断の場、例えば、暴走したトロッコに5人が轢き殺されるのを見殺しにするか、それともレバーで別の線路にトロッコを引き込んで1人を犠牲にして5人を助けるか、判断を迫る思考実験(トロッコ問題)がありますが、そこでの問いを、「レバーでトロッコを引き込む」ではなく、「目の前にいる1人を自分の手で線路に突き落としてトロッコを止めるか?」という質問に変えると、5人が轢かれることを許容する判断が行われやすくなることが知られています。
様々な意思決定から倫理的判断に至るまで、身体的反応は大きな影響を与えています。特に、外的規範(例えば、法律や経済性)によって評価することが難しい問題に対して、その役割は重要なものになります。しかしながら、現在のパンデミック下では、接触や対面が制限され、身体的反応へ目を向けることが困難になっているように感じます。
外的規範によって判断することが難しい、倫理的な他者との関りというのは、言い換えると人々の「ウェルビーイング(Wellbeing)」をどのように捉えるかという問題とも言えます。この時、そのための最も強力なきっかけとなるのが、自身の状態や他者の反応に“触れる”ことであり、様々な“他者”との共同体験・共同行為によって、より長い時間軸での共生の希望を持つ事ではないでしょうか。
現代思想2020年9月臨時増刊号 総特集=コロナ時代を生きるための60冊青土社
表現する認知科学渡邊 淳司 著 / 新曜社
Mind & Language A Dissociation Between Moral Judgments and JustificationsMARC HAUSER,FIERY CUSHMAN,LIANE YOUNG,R. KANG‐XING JIN,JOHN MIKHAIL / Wiley Online Library
わたしたちのウェルビーイングをつくりあうためにその思想、実践、技術渡邊淳司 (著, 監修), ドミニク・チェン (著, 監修), 安藤英由樹 (著), 坂倉杏介 (著), 村田藍子 (著) / ビー・エヌ・エヌ新社
見えないスポーツ図鑑伊藤亜紗 著,渡邊淳司 著,林阿希子 著 / 晶文社
『1789年—フランス革命序論』
ジョルジュ・ルフェーブル 著、高橋幸八郎・柴田三千雄・遅塚忠躬訳 / 岩波文庫
一年前、パンデミックに直面するとは予想もしていませんでした。しかし、遠い場所の話のように思えていた疫病の報せが、あっと言う間に身近に迫り、社会全体を揺るがす出来事になりました。内容の違いはあれ、出来事というものはどれもそのような「思いがけなさ」の感覚を後からもたらすものと思います。
疫病と直接関係はないのですが、この機会にジョルジュ・ルフェーブル『1789年—フランス革命序論』高橋幸八郎・柴田三千雄・遅塚忠躬訳、岩波文庫、1998年を読み直しました。この本の原著は 1789年のフランスで起きたことを丹念においかけています。
財政難克服のため国民全員に課税するという王の提案を話し合うべく、当時のフランスでは三部会(聖職者、貴族、平民の三つの身分の代表から成る議会)が招集されました。そこからフランス革命に発展したことは有名ですが、よほど興味のある人以外、その詳細を知っている人は少ないでしょう。この本を読むと、一連の経緯が実に複雑で面倒くさく、そして、どう展開するかわからない出来事の連続だったことがよくわかります。いわば、出来事を再体験しているかのような気持ちにさせてくれる本なのです。
三部会の場合、火種となったのは、貴族の代表者が求める議決方法と平民の代表者が求める議決方法とが折り合わなかったことでした。お互いに自分たちが有利になる議決方法を主張したからです。議論は平行線を辿り、平民議員たちは最後通告として「国民議会」を制定すると宣言します。そして、自分たちに賛同できる者は合流せよと聖職者議員、貴族議員に呼びかけました。要は自分たちがいわば脇役として呼ばれた三部会という組織を、完全に乗っ取ってしまったのです。この時の平民議員達による発想の転換は鮮やかです。
招集の当初、こうなることを予想できた人はいなかったでしょう。しかもこの話は、フランス革命記念日として知られる1789年7月14日の「バスティーユ陥落」とはまた別の事件なのです。しかし、不作による飢饉や経済停滞の中、散発的に見えた出来事が次第に収斂し、革命といわれる事態に発展していきます。
実は、『1789年』を読んだこと自体は、現在私が思想家、数学者であるコンドルセ(1743-1794)という同時代の人物について本を書いているからでもあります。しかしパンデミックと、それに引き続き起きたBlack Lives Matterのような社会運動のうねりがなければ、ここまでの切実さをもってこの本を読めなかった気がしています。
1789年—フランス革命序論
ジョルジュ・ルフェーブル 著、高橋幸八郎・柴田三千雄・遅塚忠躬訳 / 岩波文庫
『シュバルの理想宮』
ジョゼフ・フェルディナン・シュバル(郵便配達人)
※ 建築物の紹介です
私はファッションデザイナーとして、社会潮流を読み、時代の空気感を形にしていくだけでなく、未来の衣服を想像し、そしてそれらを具現化していくという実験的な試みを、パリ・オートクチュールファッションウィークという歴史ある舞台で発表しています。
コロナ禍で、家とアトリエの往復というライフスタイルになってすでに半年以上が経ちました。移動が制限され、文化や芸術との触れ合いや人との出会いなど、リアルな場でのインプットが限られてしまった事で、最初の頃は今までのようなモノづくりができずもどかしい日々を過ごしていました。
しかし、そんな特殊な環境の中で、私が先人から勇気をもらったエピソードをご紹介します。
今から100年以上前、フランスの片田舎に住むジョゼフ・フェルディナン・シュバルという郵便配達人が、世界中から集まる絵葉書に描かれた挿絵を毎日眺めるうちに、様々な国の文化をごちゃ混ぜにしたようなとんでもない造形の家を、33年の歳月をかけたった一人で建ててしまったのです。
例え世界を旅したことがなくとも、人は些細な情報からでも、とてつもない物を生み出す事ができる。いや、むしろ世界を旅する事が叶わないという制約は、どうにかして実現したいという原動力や、底無しの想像力を人に与えるのかもしれない。この状況下でこの話を改めて想起し、そのような思いを抱きました。
東京のど真ん中にあるアトリエから、想像上の世界旅行をしながら、目前に迫るパリ・ファッションウィークへ向けて、シュバルのように誰も見たことのない全く新しい何かを表現できると信じ、日々モノづくりと葛藤し続けています。
『共⽣⽣命体の30億年』
リン・マーギュリス 著 / 草思社
数年前、僕は「⼟」に興味を持ち始めた。
⼟とはなにか?⼟はどうやって作られるのか?⼟はどこの⼟地にもあり、⼟こそが最も多く記憶の詰まった物質ではないだろうか、そんなことを考えた。 この地球の地表⾯がコンクリートによって覆われてしまう以前、地球の肥沃な⼤地は⼟で覆われていた。⽂明と⽣命が共存していくには、⼟という存在なしには語れないのではないだろうか。そんなことを考えていた時に出会った本が、リン・マーギュリスの『⽣命とはなにか−バクテリアから惑星まで』だった。この本は衝撃的だった。僕の地球環境への⾒⽅を⼤きく変えてくれた。この本では、ダーウィンの種の強弱によって淘汰される進化論を否定し、この地球という惑星の⽣命体は進化ではなく融合、そしてバクテリアによって保持されているという説を唱えた。
それから数年経ち、このパンデミックが起きて、僕はこの先の未来を考えたいという想いが強まった頃、リン・マーギュリスの『共⽣⽣命体の30 億年』を⼿にした。代謝、⾃⼰維持、共⽣発⽣説、⽣物分類学、古細菌、連続共⽣説、媒介と融合と分解、地球はきわめて不安定であることを30 億年続けてきたことが綴られる。この地球で⽣きるすべての⽣命体が、その⽣理的なプロセスを調節し、循環と⽼廃を繰り返しながら維持してきたことが描かれ、そして最後には新参者の⼈類の優位性は拡⼤くらいしかなく、過剰成⻑という暴⾛をこの惑星は許さないと⾔い放つ。⼈間がいなくても、細菌も鯨も昆⾍も種⼦も植物も⿃も歌い、熱帯林もハミングをしながら、この惑星の⽣命体は不協和⾳と和⾳を奏で続けるだろう、と締めくくる。
共生生命体の30億年
リン・マーギュリス 著 / 草思社
まどみちお全詩集
まどみちお 著 / 理論社
ぼくがここに
今、これがぴったりと思う本は「まどみちお全詩集」(理論社)です。
まどみちおさんは「ぼくとこんなに同じことを考えている人がいるとは思わなかった」とおっしゃって生命誌のお仲間としてよい時を共有させていただきました。ですから、普段から何かにつけてまどさんの詩で心を整えているのですが、COVID-19パンデミックで、改めて一つ一つの言葉に出会いなおしています。フフフと笑ったり、そうですよねと肯きながら。
特に取り上げたいのは、まどさんが書かずにいられなかったとおっしゃるこの詩です。
ぼくが ここに いるとき
ほかの どんなものも
ぼくに かさなって
ここに いることは できない
もしも ゾウが ここに いるならば
そのゾウだけ
マメが いるならば
その一つぶの マメだけ
しか ここに いることは できない
ああ このちきゅうの うえでは
こんなに だいじに
まもられているのだ
どんなものが どんなところに
いるときにも
その「いること」こそが
なににも まして
すばらしいこと として
まどみちお全詩集
まどみちお 著 / 理論社
地球に降り立つ−新気候体制を生き抜くための政治
ブルーノ・ラトゥール著 川村久美子訳・解題 / 新評論
新型ウィルスの世界的な蔓延は、「社会/自然」及び「政治/科学」という二分法に陥りがちな我々の認識枠組みを反省的に再検討する重要な契機となったように思われる。「社会/自然」及び「政治/科学」という二分法にしたがって、我々はこれらの領域を別個独立したものと捉えがちである。しかし、新型ウイルスは、人が人以外の存在と思いもかけない形で混ざり合いながら存在していることや、政治的決断と科学的認識とが常に複雑に絡み合いながら進行していることを否応なく突きつけてくる。本書は、「社会/自然」や「政治/科学」などの近代的二分法によらない思考枠組みと、それに基づく新たな政治のあり方とを提唱してきた著者ブルーノ・ラトゥールによる気候変動問題−目下最大の人類的課題−への提言である。本書で展開される現状への鋭い批判的分析と未来への興味深い提言からは、新型ウイルス問題がより明瞭なものとした近代社会の限界を踏まえ、それに代わる道を探すための多くの手がかりが得られるように思われる。ポスト・コロナを一過性のブームで終わらせることなく、今起きつつある変化をより深く理解していく上で、本書は格好のガイドブックとなるだろう。
地球に降り立つ−新気候体制を生き抜くための政治
ブルーノ・ラトゥール著 川村久美子訳・解題 / 新評論
マルクス・ガブリエルは
11/27 (金) 登壇予定