南條史生 | 森美術館館長
慶應義塾大学経済学部、文学部哲学科美学美術史学専攻卒業。国際交流基金(1978-1986)等を経て2002年より森美術館副館長、2006年11月より現職。過去にヴェニス・ビエンナーレ日本館(1997)及び台北ビエンナーレ(1998)コミッショナー、ターナープライズ審査委員(ロンドン・1998)、横浜トリエンナーレ(2001)、シンガポール・ビエンナーレ(2006、2008)アーティスティックディレクター,茨城県北芸術2016総合ディレクター、ホノルル・ビエンナーレ(2017)キュラトリアルディレクター等を歴任。近著に「疾走するアジア~現代美術の今を見る~」 (美術年鑑社、2010)、「アートを生きる」(角川書店、2012)がある。
今、世界各都市で多様性が脅かされ、「対立」が加速しています。一方、ICFでは「対話」の重要性を強く主張し、今まで国内外、とりわけ独自の発展を遂げるアジア各地からアーティストやデザイナー、キュレーターを呼び集め、多様な価値観の受け皿としての都市について議論を重ねてきました。「アートは世界を新しい視点で見つめ直す機会をもたらす」と語り続けてきた森美術館の南條史生館長に、共生という考え方がもたらすテクノロジーとアート、欧米とアジアといった対話の重要性、そして東京がより共生する上で必要なことについてインタビューしました。
アリストテレス以来、物事を分類することで科学は発達してきました。しかし、現代の科学が解き明かしている現実は、簡単に線が引けないということでしょう。例えば、敵と味方、善と悪、内と外とか、分かっていたと思われることも、調べてみると分類するのは簡単ではない。問題の境界線は曖昧で、双方に関係しあっています。言い換えると、現実の経済、社会、自然、環境というのは、異質なものが全て依存しあって成立しているエコシステムなのです。分類しても問題は解決へと進まないとも言えます。
だからこそ、ICF2017初日の「アート&サイエンスセッション ―人間の機能拡張、そしてデザインされた共生の世界―」のキーワードである「共生」という言葉には考えさせられるものがありますね。科学の出発点である分類といったものがこの複雑な現実社会を解決しきれないわけですから。つまり、現代の科学のあり方でさえも、もう1度問い直すようなところに議論は進むのではないかと思います。分類によって真実は見つけられないかもしれないと。
テクノロジーを使った作品を創作しているアーティストが比較的親和性が高いですが、むしろその対極に位置するような極めてアナログなアーティストの方も、実は都市をともにつくる上で重要な可能性があると僕は思っています。なぜなら、具体的にこういう新しいテクノロジーが作られましたとか、こういう科学でこういうことが発見されましたというような単純なことではなく、そのような発展の本質的な意味を問い直す哲学的な見方を社会に提示することができるからです。
昨年のICFで登壇してくれたアーティストの柳幸典氏は、「多くの人は、アートは社会の役に立つみたいに言っているけど、アートは何も役に立たない。アーティストはそんなこと考えてない。」と言い切った。個人的には、あのような発想の転換、一種のパラダイムシフトはすごく大事だと思います。つまり、理詰めで科学を議論しているけど、何のためにやっているのかというような一歩飛んだ問いかけが必要な時があるわけです。例えば、原爆を作った科学者たちは懸命に研究を重ね、これは重要な実験だと信じていたのだろうけれど、本当はそれを外から見て「君たちのやっていることは人類にとってどんな意味があるか、分かっているのか?」という視点の問いかけが必要でした。我々がテクノロジーを発展させ、拡張を追い求めるときにも、アウトサイダーの別な視点は大切で、実はアーティストがそういう役割を負っているのではないかと思います。そういった直感的な思考を求められて、アーティストは都市に共生していくのだと思います。
今AIやバイオの発展につれて、倫理の問題が重要になってきていますが、アートは、倫理に対しても別な基準を提示しうる。ちょっとずれた話かもしれないけど、悪いことしている若者に「法律を守れ」というより、「君のやっていることは格好悪いよ」という方が効果的です。格好悪いということは、美学の問題なのです。つまりこっちの方がクールだよ、ということはこちらの方が美しいよという美学の勧めなのです。
ますますテクノロジーが発展し、AIがシンポし、拡張し、複雑化する社会において、サステナブルを追求すると、多様性を担保するためにアート的な思考が重要になります。特に都市デザイン、科学技術の専門家とクリエイティブ系の人が集まって、分野を越えて議論する場を作り出しているICFには文明論的な意義があると感じています。
たとえばシンガポールは共生が感じられる都市です。アジアでありながら白人は特別な存在ではない。その一方で中国系が大多数でありながら、多くのインド人やマレー系もいる。そのようにシンガポールは人種による優劣を感じさせない都市です。
別な形で共生を感じさせる都市は、ニューヨークかなあ。人種のみならず職業の共生も重要で、クリエイティブ産業で言えば、音楽、デザイン、広告、アート、映画などありとあらゆる職種が集まっている。各々が相互関係を築いており、スポンサーが得やすい利点もあって、それがニューヨークにクリエイティブな人を集める大きな原動力にもなっていますね。アーティストやクリエイターは、何かを制作しても、制作したものを見てもらえなければ意味はない。制作と発表の場、すなわちクリエイターと観客の距離が近い場所でなければなりません。それが実現されている都市がニューヨークで、自然に業種間の共生が生まれる都市になっています。
最近はAIが仕事を奪うと言っていますが、それを心配するのはおかしいですよね。だってもともと人類は楽をするために科学技術を発展させてきたんだから、仕事をしなくて良くなるなら、それは目的が達成されたことになる。むしろその時に人類がやるべきことはクリエイティブな遊び、つまり文化・芸術でしょう。クリエイティブな活動がしやすい都市が生き残ると思いますね。
クリエイティブビジネスを見ると、東京は偏った共生になっていると思います。東京にはスポンサー、会場、レジデンスなどが不十分でエコシステムが成立していない。東京には人数の面から見ても、金額の面から見ても、ニューヨークほどのスポンサーもいないし、ギャラリーもない。しかし人々は文化・芸術を楽しむことは好きです。ですから美術館に行く人の数は世界でもトップに入る。
東京は美術館が少ない。個人のアーティストや、建築、映画、あるいは工芸といったテーマに特化した美術館がほとんどない。東京には内容を絞り込んだ特化型の美術館がもっと必要だと思います。音楽産業も同じような状況でしょう。発表する場もサポートシステムも十分ではなく、ミュージシャンが苦労していることはあきらかです。
昔は、葛飾北斎みたいなクリエイターが地方に行けばそれぞれの地方に旦那がいて、居候させてくれて、まあ今でいうアーティスト・イン・レジデンスみたいなことをやっていたわけですよ。その間にお前ちょっと面白い芸を見せてくれよと言って、近くのお寺の天井に龍を書かせたりする。それが今残っていて町の宝になっている。今の日本にはそういったスポンサーとなり得る旦那がほんとに少なくなってしまった。もちろん旦那だけがクリエイティブ産業の鍵ではないけれど、サステナブルであることがアーティストの活動にとって重要なので、ちゃんとお金や才能を支えるシステムは欠かせないと思います。
敷衍すると必要なのはアーティストたちにとって経済的な衣・食・住が手に入ること、インスピレーションが湧く他のクリエイターとの出会いがあること、制作活動・発表活動の場が存在すること、仕事を評価する評論家やキュレーターが多数存在すること、などが創造性のサイクルを支えるエコシステムになっている。それが東京にはもっと必要だと言うことなのです。そうした支援はクリエイティブ産業のスポンサーからだけ来る物ではなく、金融や製造業、その他の多様な職業がみんな相互に関係している。やはり多様性と、つながる=connect, 共有する= share, 自由・解放= opennessみたいな空気がもっと必要なのではと思います。
共生を語るうえで、ICF3日目の「国際交流基金アジアセンターセッション -幸福のためのイノベーション―」は、意義深いものと言えます。なぜなら、アジアはもともと多様性の海だからです。アジアには人種の多様性はもちろん宗教の多様性、歴史の多様性もある。それはアートにとっても貴重なリソースです。そもそも、文化というものはみんなが同じ方向を向いていたら豊かとは言えないのです。例えば、全体主義国家、専制国家で多数のアーティストがプロパガンダ絵画を描いていても、それは豊かだとはいえない。むしろそれぞれのアーティストが異なった作品を作っている時にこそ文化が豊かだといえます。アジアの多様性が、共生的な都市の可能性を感じさせます。
今、最も注目しているアートシーンの1つはインドネシア。中国やインドもアジアのアートを牽引してきましたが、最近のインドネシアはアートシーンが、急速に発展しています。インドネシアは色々な人種や宗教が混ざり合って文化を形成しており、それが文化の多様性の基盤になっている。
アジアは欧米と対等であってほしいと思います。先日「アートバーゼル」に行きました。昔は日本から10軒以上のギャラリーが出展していたものですが今回確認できたのはたった2,3軒でした。それでヨーロッパのギャラリストに聞いてみると、日本やアジアのギャラリーは「香港バーゼル・アートフェア」に出展すればいいというのです。アジアのギャラリーがアジアのアートフェアに出る、というのは確かに正しいように聞こえますが、ヨーロッパのコレクターはバーゼルでアジアの作品を見なくて良いのかと僕は疑問に感じました。同時に、他者との対話がアートの本質ではなかったのか、アジアのアートなしで本当にヨーロッパの人たちの文化は豊かと言えるのかとも。
ただ歴史を振り返ると、シノワズリーやジャポニズムといった事例があるように、ヨーロッパは常に外部から文化やアイディアを取り入れて成長してきた。そのしたたかさがヨーロッパを強靱にしている。自分たちのテリトリーを囲い込む思想が強くなれば強くなるほど文化はリソースを失い、反対に交流すればするほど共生と豊かさに向かうのだと思います。理想はヨーロッパ・アメリカとアジアが威張るわけでもなく、へり下ることもなく、対等の立場で話せること。本当は当たり前のことですが。ICFという場を通じてすこしずつ実現できればと願っています。