TOKYOが芸術都市になるために知りたい、「アルスエレクトロニカ」のこと
キーノート登壇者を知る – ゲルフリート・ストッカー
TOKYOが芸術都市になるために知りたい、「アルスエレクトロニカ」のこと
オーストリアの斜陽都市を変えたメディアアートへの取り組み。
ウィーン、グラーツに続くオーストリア第3の都市であるリンツ。面積96km2、人口およそ20万人と決して大きくはないこの街は、毎年9月頃に多くの人々で賑わいます。最先端のテクノロジーを取り入れたメディアアートや種々のパフォーマンスが、美術館はもちろん、学校やホテル、教会、ショッピングモールなど街のあらゆるところに出現するのです。これが、観客動員数は8万5千人ともされる「アルスエレクトロニカ・フェスティバル」。1979年から続く世界最大のメディアアートの祭典です。
フェスティバルからスタートし、現在では美術館やラボももつアルスエレクトロニカは、メディアアートの分野で、最も重要なポジションを占める機関のひとつといえるでしょう。ICF2016のキーノートスピーカーとして来日するゲルフリード・ストッカーは、このアートディレクターを務める人物です。
リンツがあるのは、ウィーンの150kmほど西のドナウ川沿い。元々は産業革命後に紡績産業で栄え、その後鉄鋼業などへと移行してきた中堅の工業都市でした。ところがこの街は、1970年代から80年にかけて不遇に見舞われます。大気や環境汚染が顕在化し、鉄鋼業や化学産業が不振に。失業率も上がり、“灰色の空洞の街”となってしまうのです。
住民の意識を変え、街に新たに息を吹き込もうとしていくさまざまな取り組みのなかで、特にユニークだったのが、街の文化度を上げようとする試みでした。近代の産業都市から、未来を見据えた都市へと舵を切るときに、文化は欠かせない要素だという認識です。そんな流れのなかで、アルスエレクトロニカはスタートしました。
前述の通りに1979年に「アルスエレクトロニカフェスティバル」がスタートした後、89年には、メディアアートの国際コンペティション「プリ・アルスエレクトロニカ」を世界に先駆けて創設。さらに96年に、拠点となる美術館「アルスエレクトロニカ・センター」と、研究機関「アルスエレクトロニカ・フューチャーラボ」も創設して……と規模をどんどん拡大していきました。これにつれ、メディアアートのシーンを牽引する機関としての存在感も増し、今では、メディアアートにまつわる人ならば知らない者はない場となりました。日本からも著名なアーティストたちが、フェスティバルへの参加や、コンペティションの応募・受賞を行っており、たとえば2016年は、ライゾマティクスの真鍋大度、アニメーション監督・堤大介、メディアアーティストの落合陽一らの作品が受賞しました。ほかにも坂本龍一、岩井俊雄、スプツニ子!、藤幡正樹、池田亮司、刀根康尚、Astro Twin + Cosmos、三輪眞弘、エキソニモ、黒川良一……と、過去の受賞者や参加者は枚挙にいとまがありません。
アルスエレクトロニカをさらに発展させるストッカーという存在。
アルスエレクトロニカは、“メディアアート”という言葉はもちろんのこと、コンピューターですら一般に普及していなかった頃から、それらを用いた作品やアーティストに注目してきました。その35年以上にわたる全方向的取り組みによって築いてきたものは大きく、これまでに街の各所で行われたイベントの数は、400以上にものぼります。アルスエレクトロニカとリンツは、今や、メディアアートを語るときには欠くことのできないキーワードとなっているのです。
アルスエレクトロニカはさらに、研究機関「フューチャーラボ」を持つことでも、可能性を広げています。このラボは、大小の企業はもとより、種々の教育機関や公的機関などとも事業開発や研究を手がけるシンクタンクです。たとえば2015年にAUDIと手がけたヴァーチャルな運転シミュレーションモニターである「ヴァーチャル・エンジニアリング・ターミナル(VET)」。この種のシュミレーションのなかでも出色のできばえが、ラスベガスや上海のモーターショーなどで人気を呼びました。これは、最先端の技術と、一般の人にも操作しやすくデザインされたインターフェースを組み合わせることができたからこそのこと。アートやテクノロジーを、社会へとつなぐ役割をも、このラボは担っているのです。
リンツは息を吹き返し、2009年には欧州文化都市に、2014年にはUNESCOの 創造都市(Creative Cities Network)に指定されるなど、世界での認知はますます上がりつつあります。さらに雇用も増大したといい、単なる因習的な産業都市から、完全に脱却を遂げたといえるでしょう。その背後にはアルスエレクトロニカの存在があるのです。
自らもメディアアーティストであるストッカーは、1964年生まれ。1991年X-スペースを設立し、インタラクション、ロボティクスなどを取り入れたインスタレーションやパフォーマンスなどを多数実施してきました。1995年にアルスエレクトロニカのアートディレクターに就任して後は、精力的にチームを牽引しており、「アルスエレクトロニカ・センター」や、「フューチャーラボ」の創設も、この人のもとで行われています。
アートと人、アートと都市との関わりのこれからを、彼はどのように見ているのでしょうか? ICF2016での講演が待たれます。
世界の都市は、アートで街が活性化している。
さて、リンツのように、街がアートをよすがとして生き生きと輝きだした例は、世界を見渡すとほかにも数多く見つけることができるのです。
たとえば、古くから海運を生かした貿易港として栄えたイギリス西部の街、ブリストル。イギリスのシリコンバレー的な存在で、独特のクリエイティビティを持った土地柄が知られます。たとえばよく知られたところでは、覆面の世界的アーティスト、バンクシーがこの街の出身ですし、MASSIVE ATTACKやロブ・スミスなども、この街が輩出したアーティストです。
この街を街をさらに活気づけたのが、1982年にここに設立された「ウォーターシェッドメディアセンター」です。映画館やカフェバーなども併設するここは、100人以上のアーティスト、科学者、技術者などとコラボレーションを続け、さまざまなネットワークを生み出しています。
そんな彼らが2012年から推進するのが“Playable City”。“Play(遊び)”を通じて、都市を思いがけない驚きの交流が溢れる場所に変えていこうとするプロジェクトで、人と人、人と都市のつながりが強い未来都市を提案する、イノベーションプラットフォームです。プロジェクトの基本的なコンセプトは、都市に創造的にアプローチし、街の中にあるモノを利用するなど、市民が楽しめる作品をつくること。世界から作品を募るPlayable City Awardには、初年度から、200以上の応募があったといいますから、その注目度の高さが分かるでしょう。アートが街へと飛び出し、人と人、人と街とをつないでいく……。プロジェクトは、世界のあらゆる都市で展開することも見据えています。ブリストル発で、世界中の街に変革がもたらされるかもしれないのです。
そのほかにも、造船所が閉鎖され、廃墟となっていた街が、アート集団『ラ・マシン』の拠点となる公園をつくることで、ヨーロッパ有数の観光スポットとなった、フランスの小都市ナント、アートビエンナーレの成功によってアジアの文化の中心都市に向かう取り組みを始めた韓国光州、市がアーティストたちとともに文化施設を運営する例が散見されるヘルシンキなど、きっかけとなった場や組織、イベント等はさまざまながら、文化を鍵とした街づくりが行われている例は増えつつあります。アートや文化的資産が未来を形づくることが、これらの街でははっきりと認識されているのです。
TOKYOにもっと“文化”を?!
翻って東京を文化・アート的視点から見るとき、世界のなかでどのような位置にあるでしょうか。都市戦略研究所が、2008年以降毎年発表する「世界の都市総合力ランキング」(Global Power City Index、GPCI)は、ひとつの指標となるでしょう。
このランキングは、世界を代表する主要40都市を選定し、都市の力を表す6分野(「経済」「研究・開発」「文化・交流」「居住」「環境」「交通・アクセス」)における70の指標に基づいて評価を行うもの。昨年のランキングでは、東京は、ロンドン、ニューヨーク、パリに次ぐ4位。5位以下にシンガポール、ソウル、ホンコンとアジアの都市が続きます。東京は、2008年以来、この順位を維持し続けているのですが、そのスコアの内訳には注目したいところ。東京は「経済」「研究・開発」の分野では高いスコアを叩き出している一方で、「文化・交流」の分野で、上位都市に遅れをとっているのです。
年ごとに着実にスコアを伸ばしているとはいえ、美術館数やアーティストの創作環境、文化・歴史・伝統への接触機会といった項目は、上位都市からはまだ引き離されている状況。これが“世界都市”としての東京の足踏みの原因のひとつなのです。
このことを認識し、弱みを強みへと変えていこうと気づくとき、東京はさらに魅了を増していくのではないでしょうか。
ゲルフリート・ストッカー
アルスエレクトロニカ総合芸術監督
ゲルフリート・ストッカーはメディア・アーティストであり、テレコミュニケーションエンジニアでもある。1991年には学際的プロジェクトを手掛けるチームとして、X-スペースを結成、相互作用・ロボット工学・通信といった分野にまたがる様々なインスタレーションやパフォーマンスを制作している。1995年にはアルスエレクトロニカの芸術監督に就任。1995年から96年にかけて、ストッカーはアーティストと技術者で構成されたチームを率いて、アルスエレクトロニカ・センターの先駆的な新規展示方針を取り纏め、併せてセンター内に独自のR&D機関である、アルスエレクトロニカ・フューチャーラボを設立している。ストッカーはアルスエレクトロニカが2004年以降実施してきた一連の国際展覧会の構想と実現を主導しており、2005年からは、刷新され、規模も拡大したアルスエレクトロニカ・センターの企画立案とテーマの再設定の責任を担う。